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2006年7月23日 (日)

このごろ思うこと

 人は、人の失態が大好きである。特に、それが知ってはいるが自分に関係のない人である場合、その失態に向けられる好奇の目はすさまじいといえる。

 むかしむかし、日本には、福田恆存という名前の人がいて、いろいろなためになることを言っていたのですが、まあ今日は、その人の話に耳を傾けてみましょう。

 「英国のプロヒューモ前陸相の「醜聞」事件が明るみに出た当時から、日本の週刊誌が相手方の傾城キーラーを中心に賑々しく書き立ててゐる。動機は単純である。西も東もない、人間の好奇心は「美談」よりも「醜聞」を愛する、唯それだけの事だ。
 私はさういう好奇心自体を軽蔑しはしない。しかし、馬鹿々々しいのは、この種の事件に吾々の好奇心を満足させてくれる内容の殆ど無き事、痴漢に関する記事と少しも変わりはなく、それでも性懲りも無く、大衆はそれを読みたがるといふ事だ。実に馬鹿々々しいと思ふのは、それを「上流階級の頽廃」と結び附ける事によつて、自分のあまり上等とは言へぬ好奇心を正当化する人種がゐるという事だ。あんな事は頽廃でも何でもない、プロヒューモ氏は要するにヘマをやつたというだけの事だ。
 それを「上流階級の頽廃」と言ひ得るほど、吾々「中下流」の性生活が道徳的であり、健全であるとは必ずしも言へない筈である。総じて何についても言へる事だが、殊に性においては自分とさして変らぬ行為も、他人の事となると、とかくいかがはしく不潔に見えるものらしい。そこから「醜聞」に対する飽く事無き好奇心が生まれるのであるが、ヘマと道徳とは飽くまで別の次元に属するものであり、両者を混同する無意識の偽善は、吾々の道徳観の曖昧なる事を証拠立てるだけの事に過ぎまい。」

 この文章のうちの、上流階級というところを「芸能界」、あるいは「日本」に、英国のプロヒューモ氏というところを「極楽とんぼの山本氏」に置き換えていただければ、僕の言わんとするところは殆ど言い尽くされたことになります。

 ぼくは、あえて強調したい。「山本氏はヘマをやっただけだ」

 僕は彼の芸人としての価値がいかほどのものであったかを詳らかにする者ではないが、これだけは言えると思う、馬鹿な未成年に手を出してしまって本当に運が悪かったと。特に時代が、芸能界という本来道に外れた人たちを集める場所に対して法外なほどの品行方正を求めているときに当ってはなおさらである。

 弱いところを見せてはいけない。彼らは、必ずそこにつけこんでゆくに違いない。彼らに興味があるのは、彼らがターゲットにする人々のその後の人生では決して無い。その人たちがこの事件が終わった後に、どういう人生を歩むかなんてなことには露ほどの注意も払わない。彼らが唯一情熱を燃やすのは、人々がどのようにして、どこまで落ちてゆくかでしかない。落とせるところまで落としおわるまで彼らはとまることは無いであろう。

 吉本興業が、彼の失態に対してすばやく解雇という処置をとり、萩本欽一が 彼が所属していた野球チームに対して即座に解散という手を打った(その後、一瞬にして解散宣言を撤回したところを見ると最初から解散なんか念頭においていないが、批判をかわすだけのためにそう言っただけというようななんだか茶番めいたことになりますが)などというようなもろもろの行動は芸能界という厳しい現実を映していて、僕は彼らが哀れになります。

 人の不幸は蜜より甘い。誰かが一度弱みを見せれば、それをかばうものまで含めて容赦なく、一言の釈明の機会も与えることなく落ちるところまで落としてしまう。本来それをかばってもいいはずの、事務所までが我関せずの態度で、尻尾をつかまれたトカゲよろしくすっぱりと切り捨ててしまう。

 悪いこと、いやなこと、いやらしいこと、眉をしかめたくなるようなこと、そんな事どもを、全部まとめてゴミ箱に棄てて、世界が昔よりもきれいになったなんて思うのは、いかんのではないかと思う。

 ぼくは、未成年と性交渉を持つということが、どれほど悪いことであるのかということを計りかねている。未成年にお酒を飲ませるということが、酔わせてたぶらかすということが、それほど悪いことであるとも思われない。僕は、今まで女の人に精神面で勝ったと思ったためしがない。僕にとって彼女たちはいつでも僕よりも鋭くて、いろいろなことに考えが回って、僕よりもいろんなことを知っている人たちである。未成年だ17歳だといって、エロい目をしたおっさんと酒をのんだらどういうことになるかなんてなことは、分かりそうなものではないかとおもう。

 とにかく、山本氏はヘマをしてしまった。そしてそのヘマを、人々は決して忘れないだろう。彼が生き続ける限り、彼の周りには、人々の声をひそめたささやきがついて回るであろう。

 僕は彼がかわいそうだ。

2006年7月17日 (月)

第三省察 ~神について、神は存在すること

ということで、ユベントスのことについて話したいと思います。

今更、というきもするかもしれないですが、やっぱり、このブログを、希にしか更新しないとはいえ、更新したらしたでサッカーの話で茶を濁している身として、この話はやっぱり、避けては通れない問題なのです。

ぼくは、個人的な話をすると、というか、ここで個人的な話以外をしたことはないのですが、とにかく、これまでの話の流れからいって、気づいている人もいるかも知れませんが、アンチ巨人です。

それも、容赦しないタイプのアンチです。ほんとに、心から巨人が負ければ良いと思っている人間です。巨人が10連敗したとしたら、そろそろ勝ったほうがいいんじゃないかと思うような、生やさしいアンチでは、僕はないのです。

ということで、巨人が10連敗すれば、11敗目を僕は待ってしまうのです。7月は白星なしでいいんじゃねぇーの、と思ってしまう人です

そんな僕が、僕がユベントスが2部に落ちると聞いて、にやにやしてしまったということは、改めて指摘するをまたないでしょう。

ユベントスにしろ、ミランにしろ、ローマにしろ、インテルにしろラツィオにしろ、悪いことをするチームは、落ちてしまえばいいと、ぼくは常に思ってやまない25歳です。

なもんで、ユベントスが降格という一報を聞いたときの僕の喜び、また、鼻息たるや推して知るべきです。

ざまぁーミソラシド。なめんなよオラっ!と、こう快哉を叫んだわけです。

ところで、僕が巨人よりも憎むものを知っておられるでしょうか、それは不平等です。

日本での、偏った報道からは、どうも何一つ僕の知りたいことは知りえません。

僕の知りたいこと、それは、唯一つです。

つまり「なぜ、ミランは降格を免れたのか?」

このことのみです。

僕にはそこらへんの機微が良く分かりません。イタリア語も分からないので、詳しいことも分かりません。

そもそも、僕が貧弱な情報網(といってもヤフースポーツのニュース欄の域を出ないのですが)を持って知っていたことは、ユベントスは危ないということです。

ユベントスは3部に落ちるのではないかということが、ワールドカップの始まる前に、なにやらじわじわと、沸き立ち始めて、そうこうしていると、いやいや、やばいのはユベントスばかりではないという話が出てきて、どうやらミランとか、フィオレンティーナとかがやばいという話になって、そんなことを話しながら、ワールドカップを向かえ、もしかして、イタリアがワールドカップで優勝すれば、恩赦が下るのではないのかというような話もありました。

でも、詳しく、ユベントスがどういう悪いことをしたのかもわからず、モッジがどうだとか、ブッフォンがどうだとか言う話ばかりで、詳しい説明はついに与えられず、僕には、なぜユベントスが二部落ちで、ミランが二部落ちを免れたのかも分からないのでした。

その辺の詳しいところを、誰か僕に、手取り足取り教えてくれないでしょうか?

ユベントスとミランとラツィオとフィオレンティーナの処分のあいだに横たわる事情を僕は詳しく知りたいのでした。

ところで、この前の記事へのコメントで親切な方が指摘してくださったとおり、僕の思うワールドカップのMVPはマキシロペスさんではなく、マキシロドリゲス選手の間違いです。

このように、僕の話すことはてきとーなことばかりなので、こんなたわごとに付き合ってくれている人がいること自体がすでに驚きなのですが、コメントすら入れてくれる人がいるとはさらに思わないのでした。

僕の、妄言を読んでくれる人がいるということは、ありがたいことです。それが、たとえ一人だとしても、僕はその一人の読んでくれる人のために、もう少し注意して書いていきたいと思います。

これからも、あさってのことばかり書くと思われますが、僕が間違っている場合には(たいていの場合には僕が間違っているのですが)遠慮せず指摘してください。

ではでは、風邪など引かぬように。

2006年7月14日 (金)

私はも早、善意思を持って目覚めなかった

相変わらずの有無も言わせぬ文系でごめんなさい。

ということで、文科系の僕は、断然、ジズゥーの味方なのでした。

報道ステーションがいくら偏った報道をして、ジダンとマテラッツィのあいだに差をつけるのに嫌気がさしても(翻訳の一人称は、ジダンは”僕”で、マテラッツィは”俺”でしたね)、やっぱり、ぼくにとっては、ジダンはジダン。永遠のアイドルなのでした。

ここ十年来の、ジダンファンにしてみると、ジダンははっきり言って、彼はそういうことをしてしまう選手であるだろうというのが正直なところです。

人格者で、サッカーに大きく貢献してきたことは、間違いないし、それに対してどうこう言う気はないのですが、ジダンという選手個人を考えたときに、なんと言うか意外にキレてしまいやすい要素はこれ、あったのではないかと、こう思うわけです。

なんにしても、FIFAがジダンのMVPを剥奪しようがしまいが(ちなみに僕の中でのMVPはアルゼンチンのマキシロペスです)僕のジダンの評価はこれっぽっちも変わりません。

相変わらず、サイコーな選手です。

引退が惜しまれます。同じ意味で、中田英寿選手の引退も惜しまれます。サッカーに対して、これまで感じていたほどのときめきを感じられなくなっていたというのですが、僕がえらそうにいえることではないのですが、自らの仕事に新鮮さを常に感じていられるなんて、やっぱり、それは、無理なんじゃないかと、僕は思ってしまいます。

サッカーがつまらなくなったから、サッカーをやめる、。これは、実に彼らしいのですが、なんとなく、思うのは自分の仕事にときめきを感じていられるような人は、ほとんどいないのではないかということで。

なんにしても、これからが大事なときになってくるのでしょう。

日本のサッカーが弱くて、たとえばドイツのサッカーが強い!なんてなことを言って、それは国民のサッカーに対する態度にその根本の問題が潜んでいるのではないかなんていって、いたずらに、紙面を無駄にしているひとたちがいるのですが、僕としては、サッカーが弱いから、それがどうしたんだ、という感じです。

サッカーに対して日本国民は未熟であるらしい、だから、何なんだ!それがどうした!と僕らは言うべきだと思います。

だって、僕たちは、サッカーで西洋人や南米の人たちに勝つその日のことを思って、日々を過ごしているわけではないからです。

そして、僕は、それはすばらしいことだと思っています。

なぜなら、おそらく、人生には、日本人にとっては、サッカーで西洋のチームに勝ったり、南米の人たちを打ち負かしたりすることよりも大切なことがあると、ぼくはそう信じているからです。

だから、僕は、日本のサポーターが、ドイツやイングランドのサポーターのようになれば日本代表がドイツ代表やイングランド代表のように強くなれるなんてぜんぜん信じられません、もしかしたら、強くなれるかもしれませんが、そんなイングランドのフーリガンのような奴らは糞食らえです。

西洋のようにやって強くなれるのでしょうか?
ブラジルのようやって強くなれるのでしょうか?

日本人には、日本人のやり方があると、僕は思います。

それでダメなら、それまでです。あきらめればいいと思います。

なんてね。なんてね。なんてね。

じゃあねぇー。おやすみ

2006年7月 8日 (土)

中原さん曰く


こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらわしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我儘だった!
目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分からなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!


彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてはきたが、彼女の心は
私のより真つ直ぐいそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、
而もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

嘗て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもうあきらめてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つている。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!


かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分かち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索む
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む景色ばかりかなしきはなし


私はおまへのことを思つているよ
いとほしい、なごやかに澄んだ気持ちの中に、
昼も夜も浸つているよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽くさうと思ふよ。

またさうすることのはかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまへに尽くせるんだから幸福だ!

Ⅴ 幸福
幸福は厩の中にゐる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

    頑なの心は、不幸でいらいらして、
    せめてめまぐるしいものや
    数々のものに心を紛らす。
    そして益々不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

    頑なの心は、理解に欠けて、
    なすべきをしらず、ただ利に走り、
    意気肖沈して銷沈して、怒りやすく、
    人に嫌はれて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず。
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!

                    『無題』中原中也

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