自分が絶望の状態にあることを知っている絶望。それでここではひとは自分が自己(したがってまた或る永遠的なるもの)をもっていることを意識している、そして絶望して自己自身であろうと欲しないか絶望して自己自身であろうと欲するかのいずれかである。
「幻影を捨て去れば、たとえ混沌のなかにあっても、すべては顕わに露呈する。初めから混沌以外の何ものでもなかったのだ。わたしをつつみ、わたしの鰓で呼吸していたそれは、ネバネバした液体だった。そこのほうは、月がものうげに動かぬ不透明な光をなげかけ、ひっそりと豊饒だったが、上層には密林と騒音があった。何についてもわたしはたちまち対立と矛盾を見つけ、現実と非現実のあいだに風刺と逆説を見出した。わたしがわたし自身の最悪の敵であった。してみたいと思うことは何一つ無かったし、また、何かしてみようと思ったとしても、できることは何も無かった。」
-Nobody likes me , nobody likes me but that's okay 'cause I don't like you anyway.
「テレザはトマーシュのいうことをきき、母親のところには行かなかった。しかし、その日のうちに、通りでころんで、膝にあざを作った。彼女の歩きぶりはたよりないものとなり、ほとんど毎日のようにどこかでころんで、どこかしら痛めたり、少なくとも手に持っていたものを
落としたりした。
そこには落下への克服したがい憧れがあった。絶えず繰り返すめまいの中で生きていた。
ころぶ者は「おこして!」と、いう。トマーシュは彼女を我慢強くおこし続けた。」
「ここでは無論自分の絶望を意識している人が果たして絶望についての真実の観念を持っているかいなかが区別されなければならない。それで或る人は彼のもっている観念からいえば自分を絶望していると呼ぶことが正しいかもしれない、それにまた彼が絶望しているというのは本当のことなのかもしれない。しかしそれだからといって、彼が絶望についての真実の観念をもっているということにはならないのである。もし我々が絶望についての真実の観念のもとに彼の生活を考察するならば、おそらく我々は彼にこういわなければならないであろう、--「君は君の考えているよりも本当は遥かに多く絶望している。君の絶望は実はもっと深い所にくいこんでいるのだ」。前述したことを想起してくるとすれば、異教徒の状態もまた同様である。もしも彼が他の異教徒と比較して自己自身を絶望しているとみなすならば、自分を絶望していると考えているその点では彼の考えは間違っている、--彼は絶望についての真実の観念を所有していないのである。」
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